札幌市西区・中央区にある一等三角点:点名は「琴似山」の山で三角山から大倉山・奥三角山へと山並みが続く。
三角山は市内から見ると正三角形に見えることからの山名であろうが、
発寒川の畔に住んでいた先住民族はこの山を「ハチャムエプイ」(発寒の小山)と呼んでいた。
三角山は日本のスキー発祥の地でもある。
東北帝国大学の講師としてスイスから日本を訪れていたハンス・コラー
が1908年日本で初めて三角山でスキー滑降を披露した。このことからスキーが普及し始め、
北海道農科大学スキー部は、三角山にシルバーシャンツェというジャンプ台を作り、さらに札幌市が札幌シャンツェを設け、
1920年代には北海道におけるスキー大会開催の中心地であった。荒井山記念シャンツェ、大倉シャンツェが作られると、
ジャンプ大会は大倉シャンツエに移っていったが、その後も三角山はスキー場としてスキーヤーに利用された。1950年代になると採石場ができて、
山体の一部を削られ、三角山のゲレンデは消滅した。
1920年代には、新潟県の高田でレルヒが日本国内で初めてスキー指導を行った。
札幌と高田の間で「日本のスキー発祥の地」を争うに至ったが、全日本スキー連盟初代会長稲田昌植が「コラーは滑ってみせたかも知れないが、
レルヒのように技術は教えなかったので、
日本でスキーが根付いたのは高田である」という意見が出され、これが定着。結果的に三角山は日本におけるスキー発祥の地の座を逃した。
島判官がコタンベツの丘(円山公園)に登って、札幌市の市街化計画の構想を考えたと言われているが、コタンベツの丘ではなく三角山
であったとする推論もある。
三角山から眺めると市街地の碁盤の目が整然と見えるが、コタンベツの丘からでは碁盤の目が歪んで見えると言う理由によるようである。
ふみの日の7月23日には、山頂に臨時郵便局が開設され、「三角山ポスト」が置かれる。郵便物や山頂で発行される「記念登山証明書」には、
三角山や一等三角点とこの山に生息するキアゲハの入ったデザインの消印が捺印される。
大倉山の山名は秩父宮の口添えで大倉喜七郎男爵
(大倉財閥2代目総帥。ホテルオークラ等日本のホテル業に大きな足跡を残した)
が1931年に5万円をかけて60m級シャンツエを造って札幌市に寄贈した。
それは大倉シャンツエと命名され、山も大倉山と呼ばれるようになった。
登山路は山の手、宮の森、盤渓と3ルートある。 総延長:4.6km(山の手〜山頂1.4km,宮の森〜山頂1.7km,小別沢〜山頂2.5km)
今回は山の手登山口から登る。
琴似駅前の道を山の手方向へ進み、行き止まりの北一条道路から右に折れて、 すぐに左に入った緑が丘療育園の向側が登山口。
この登山路が一番利用されていて冬でもしっかりした踏跡がついている。
整備された登山路を辿ると6〜7分程でこぶし平に着く。このあたりは雪が溶けるとすぐに
エゾエンゴサク・エンレイソウ・ニリンソウ・キバナノアマナが道端を飾る。
左手より宮ノ森方向からの路を併せ、暫くは緩緩い登りの先で路は二手に分かれるが、距離が短い左の路に入る。
傾斜もきつくなり、左へ変針六の坂を登るようになる。更に、七の坂・八の坂とジグを切って登ると宮ノ森方向からの路を併せ
(宮の森方向からは途中で分岐して二カ所で、この路と合流する)暫くはまた緩い登りとなる。 四阿のところまで来ると、
左折して、十の坂を一登りで一等三角点の三角山頂上。
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