中愛別町にあり、柱状節理の岩が山頂部を囲んでいることに依る山名で、
十勝アイヌと石狩アイヌの古戦場と言われ、砦跡もある山。
幕末の探検家、松浦武史郎の「石狩日記」には「この処峨々たる崖、嵌空して大岩窟なるに入る。比の処は文化年度、間宮某も此所まで上り此窟に一宿し帰られしと申伝うなり」とあり、
間宮林蔵や松浦武史郎もこの山に来ていたといわれている。
無類岩山に登ろうと向かったが、丸瀬布側からは道路が閉鎖でアクセスできず、転進先も林道が閉鎖、再々転進先も林道閉鎖。先日の豪雨でかなりの林道に被害がでているようだ。出発前夜は忙しく、林道状況も確認できずに来てしまった。
帰路、途中の石垣山に登る。
この山は四方から登ることができるようだが、今回は一般的な中愛別から登る。旭川から層雲峡に向かって39号線を走り、中愛別を過ぎて石狩川に架かる中愛別橋を渡り、
右側に「オートキャンプ場、石垣山登山口、古戦場」の看板が見えてくる。 この看板を右折し、オートキャンプ場を過ぎて愛別発電所(有効落差 20m、出力 290kw)が見えてくると、その左側に登山口がある。金網で囲われた水路を渡って、登山道へ入って行く。急斜面の細い登山道は岩が露出したり、苔が覆っていて滑り易い。
30分ほどそんな道を上って行くと、垂直に切り立つ岩壁の根元に出る。4〜5名のグループがクライミングの最中で暫く見る。クラックが発達しているのでクラック登りを楽しんでいるようだ。
さらに暗く湿った岩壁下の道を辿ると、「桂岩」を過ぎ 「相愛岩」が9合目となり、まもなく、稜線に出る。
分岐があり、三角点のある左方向は笹が被さっているので取り合えず刈り払われた右側の道を辿ると、開けたところに出る。そこには「石垣山」の立派な石碑があった。
東側は切り立った断崖の上で、眼下には石狩川が見えている。
帰路、三角点のある地点へ向かおうと分岐を辿ると笹を分けた手に小さな赤いダニが数匹かたまって、
慌てて戻り、間宮林蔵が泊まったと言う洞窟は見ることができなかった。
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