円山 まるやま 225m 登り: 30分 下り: 20分


大師堂(円山八十八カ所の入り口)が登山口 2番3番のお地蔵さん

札幌の中心部からほど近い円山公園にある三等三角点の山。市内のどこからでも眺められるこの山をアイヌの人たちは、モ・イワ「小さい・山」 と呼んでいたが、麓の円山村の名称がいつしか山名となり、隣のインカルシュッペ「展望台」がモイワと呼ばれるようになった。 円山村の名称は明治4年、 のちに北海道庁初代長官となる岩村通俊が島判官の構想を基礎とした街造りに京都を思って命名したことによる。 北海道開拓の神と呼ばれ顕彰されている島義勇は明治2年(1869年)、開拓使判官に就任、円山の麓にあるコタンベツの丘に登り、 極寒の無人の原野だった札幌に、整然とした碁盤の目を描く「世界一の都」を構想した。 その時詠んだ漢詩が「河水遠流山峙隅平原千里地膏腴四通八達宜開府他日五州第一都」=「河川の水は遠くはるばると流れ、 山がかたわらにそびえたっている。平原は千里のかなたにまで広がり、土地はすばらしく肥えている。四方八方に道の通ずるこの土地こそ、 町を開くのにふさわしい。いずれの日か、この町は世界第一の都市になるだろう。

ロシアの急激な南下政策に応じ、明治2年(1869)、明治新政府は、北辺警備と開拓のため開拓使を設置し、同年8月蝦夷地を北海道と改め、 初代開拓長官に中納言・鍋島直正を任命した。 鍋島は佐賀藩主であったため、その縁につながる側近の島義勇が判官に任命された。

未開地雪国での都市建設ゆえに、多額の費用の調達などをめぐり、第2代長官東久世通禧と対立し、わずか半年で、志半ばで解任され、 後に初代秋田県知事になるも、江藤新平と共に佐賀の乱を起こして敗れ、斬罪梟首となった。 真偽のほどは明らかでないが、明治天皇の裁可で特赦と定まり、使者が佐賀に発ったが、留守を預かっていた伊藤博文が使者が着く前に殺してしまえと 大久保に伝えた。使者は死刑執行より早くに着いていたが大久保は翌日会うと言って会わずに死刑を執行した。 翌日使者に会った大久保は助命の手紙であればなぜ昨夜出さなかったのかと使者を叱責したため、 使者は宿に帰って腹を切ったと言う講談のような話が残っている。
円山公園には顕彰碑「島判官紀功碑」がある。 また、島の後を継いで計画を遂行した岩村通俊の銅像もある。命日の4月13日には北海道神宮で北海道開拓と神宮創祀の功績を偲び、 「島判官慰霊祭」が毎年催されている。また、札幌祭りでは島の人形をあしらった山車「開府の判官 島義勇」が供奉されている。 円山公園は花見の名所となっているが、島判官を道案内した発寒の・福玉仙吉が彼の死を悼み、 近隣から集めた桜の苗木150株を札幌神社(北海道神宮の旧名)の参道に植えたことが始まりとなった。

この山には散歩で良く登っているが、先日は江別から来たと言う80歳の人と一緒になった。彼の父母はこの山の麓で農場を営んでいたので懐かしく 思っての登山で,農作業の後には付近の温泉に浸って疲れととっていたとのことであった。 当時、円山の麓には札幌温泉・藻岩温泉・不老閣・円山温泉・界川温泉などの鉱泉があったが中でも 札幌温泉は北海学園大学長を務めた高倉新一郎の父、高倉安二郎によって建設され、定山渓より引き湯した50人風呂が2カ所あり、 一階480坪・二階170坪で電車も温泉下まで運行する一大リゾート構想に基づくものであった。安二郎は農場・雑穀・電気・印刷・産馬 など幅広い事業展開のほか道議会議員や帯広信金の全身である 帯広信用組合の初代会長を務めた。

二本の登山路があるが、よく使われている北西尾根コースは円山公園にある大師堂(円山八十八カ所の入り口)が登山口。 四国の八十八カ所に因んで山頂まで石仏が並ぶ原始林の中の北西尾根を辿るコース。もう一つの登山路は動物園の脇から 円山川を渡り円山川に沿って暫く進み、円山西町付近から西尾根に沿って登るコース。

今回は北西尾根コースで登る。この登山路は明治初期に頂上付近から石材を搬出するためにあった路を、大正3年に上田万平・善七兄弟が整備し、 四国の霊場「八十八ヶ所」にちなんで、八十八体の観音像が登山口から頂上までの間に建てられ、登山口には弘法大師にちなんで「大師堂」も建てられた。 当時は信仰の場として登られていたようである。登山路には八十カ所の石仏が安置されていることから、八十八カ所の別名もある山。 300種以上の樹木から成る、豊かな原始林が評価され、大正10年に全山天然記念物に指定されている。

登山口からは階段を登り、大きなケヤキの根を跨いで登ると、リスが顔を出し、鳥の囀りもにぎやかだ。 ハリギリやケヤキの巨木が多く、春にはコブシや山桜を楽しむことができる。樹木の間からビルの街並みが飛び込んでくる。 頂上近くに少しキツイ登りがあるが、30分足らずで手軽に頂上に立つことが出来る。頂上の石は切り割りのようになっている。 頂上に大石がゴロゴロしていたのでは採石作業も捗らないので、作業し易いように加工したのではと思ったりしている。

山頂には「山神」の石碑があり、この碑は,奥の院に相対して建立されたものである。 山神碑は明治5年に円山の山頂で岩石を採掘していた石工たちによって作られたがその後土中に埋もれてしまっていたものを 発見して有志による「山神奉賛会」が作られ、木材関係者や一般市民からの寄付金をもとに基礎工事が行われ、 昭和31年に復興祭が行われ、その後は、札幌地区林材協会が引き継ぎ毎年例祭が行われている。

この碑は明治5年12月の山の神の祭日【 山神とは、山を守り、山をつかさどる神のことで,秋の収穫後は近くの山にいて、 春になると山を下って田の神になるといわれている。山の神の祭日は、地方によりまちまちで北海道・東北をはじめとする東日本では12日とする 地域が多く、関東では17日とする場合も多い。北陸では9日、東海から中部、近畿地方の南部では7日である場合が多い。 この日には山に入らない、山仕事はしない、刃物は使わないなどの習わしがある。】 に合わせて建立する予定だったと思われる。 ところが、明治政府は、明治5年11月になって、突然「太陰暦を廃止し、太陽暦を用いること。 明治5年12月3日をもって、6年1月1日とする」という太政官布告を発した。12月は2日しかなかく、 ひと月早い正月、石工たちは急ぎ仕事を切り上げて本州に戻った。 石碑は仮安置し翌年改めて建立する予定だったと思われるが、 明治6年になると、円山は豊富な樹種に恵まれた山であり、札幌神社の神域でもあることから、 黒田次官が禁伐令を出した。円山に代わる採石場は、今の南区川沿で硬石・石山地区で軟石とし、 再び石工が募集され、 今度は伊豆方面から別の石工が呼ばれたため、円山の山神碑は仮安置されたまま、 いつしか土中に埋もれ眠り続けていたということになる。

整然とした碁盤の目の街並みを眼下に収める時に、この基礎は島判官の哲学にあったのだと言うことを改めて思う。 山頂直下は切り立った岩肌が剥き出になっているが、これは明治5年開拓使の庁舎建設のため、石材を切り出した跡である。

ケヤキの根を跨いで登る いつものリスさんがポーズ
胡桃をくわえて冬の準備 オオハナウド
頂上手前の88番お地蔵さん 88番お地蔵さんのすぐ上で動物園方面への路と合流
奥の院(西尾根方面へ少し進んだ処にある) 山神
頂上 三角点